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田中武久の歴史

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今年で開店35周年を迎えた老舗『セント・ジェームス』のオーナー・ピアニストの田中武久は、関西ジャズ界の重鎮である。1934年(昭和9年)3月生まれの彼は、その昔、増谷(ますたに)武久の名前で活動を開始した。昔を知らぬ若い世代にとって彼は「田中さん」だが、昔のバンド仲間は今も彼を「マッさん」と呼んでいる。
1959年、梅田・堂山町に「クラブ・アロー」が開店すると、増谷はアロー・ジャズ・オーケストラ(AJO)の対バンとして、ジョージ・シアリングを範とする自己のクインテットを率いた。その頃のメンバーは八田(vib)、伊藤(cl)、鈴木(b)、不明(ds)。メンバーの姓名が一部不明なのは、本人の記憶があいまいだからである。
1959年9月、古谷充(as)がAJOを退団、10月に大塚善章(p)らとともに「ザ・フレッシュメン」を結成すると、増谷クインテットは、その頃、新しくミナミの宗右衛門町にできたクラブ・アローの系列店「キー・ホール」の専属バンドとして引っ越す。増谷のバンドは、「サウス・コクリコ」と命名された。ターゲット・プロの古川益雄は、友人の下着デザイナー、鴨居羊子に依頼してこう名付けたのだが、増谷はこのバンド名が気に入らなかったと思われる。
その後ターゲット・プロを離れた増谷は、竹田一彦(g)のカルテットに参加、ミナミの高級クラブ「スワン」や、北新地のクラブ「名前不明」で演奏している。この頃のメンバーは竹田(g)、増谷(p)、小林勝(b)、堀田(ds)だった。ドラムの堀田は、同志社大学軽音楽部で部長をつとめた人物だが、メンバーの姓名が一部不明なのは、本人の記憶があいまいだからである。
その後、増谷は自己のトリオを結成。メンバーは小林勝(b)、クラボンこと大倉(ds)または金子敏雄(ds)。メンバーの姓名が一部不明なのは、本人の記憶があいまいだからである。
その後、大阪を4年間離れた増谷は九州で活動を開始、その頃にジョージ大塚(ds)と知り合っている。
「九州にいいピアニストがいる」という噂を聞いた、AJOの北野タダオ(p)と宗清洋(tb)は、噂を確かめるために、九州を訪問。その噂のピアニストが出演するクラブに足を運ぶと、なんとそれが旧友の増谷であることを知り、関西に戻ることを強く勧めた。
関西に戻ってからの増谷は、田中姓と名乗り、当時鰻谷にあった『デューク』(エリントンのサインが入った白いピアノで有名な老舗ジャズ喫茶。ジャズ喫茶といっても、昼の部・夜の部の生演奏が中心。東京でいえば昔の新宿ピット・インのような感じ)や、ミュージック・ポストというプロダクションに所属し、ドゥ・スポーツ・プラザの2階などで演奏した。
1977年、宗右衛門町のダイヤモンドビル4階に『セント・ジェームス』を開店、オーナー&ハウス・ピアニストとなる。1979年、中山良一(b)、東原力哉(ds)と、ファースト・アルバム『I Have Been Born』を自主制作。長年入手困難であったが、セントジェームス30周年記念で初復刻された(マスターテープ紛失のためディスクコピー)。
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1985年まで同地で営業したが、1986年に現在の道頓堀ニコービルの4階に引っ越す。
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1990年暮れになって、エルヴィン・ジョーンズから突然の国際電話。「飛行機の切符とスタジオを押さえたから、ニューヨークでレコーディングしよう」。12月10日、11日NYのRCAスタジオで『When I was At Aso-Mountain』を録音。このアルバムは1993年11月10日に発売された。
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80年代後半から90年代半ばまでにかけて『セント・ジェームス』には、大阪を訪れた海外ミュージシャンが多数立ち寄った。エルヴィン・ジョーンズ&ウィントン・マルサリス、レイ・ブラウン、ジーン・ハリスなどが出演している。
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これは1993年頃の田中武久。
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こちらは近影。右は三輪田瑞絵(p,key)。
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by makotogotoh | 2011-08-20 04:11
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