2007年 12月 22日 ( 1 )

クオリアとセレンディピティ

a0107397_11314384.jpg 佐々木俊尚さんの『フラット革命』(講談社)を読む。
《大新聞・巨大メディアの没落、ネット右翼と左翼の対立、ミクシィ的人間関係、出会い系、ブログ炎上と終わりなき論争――》
 ネットの登場とその普及によって、社会のあらゆる場面で起こった変化を具体例を挙げて、それぞれに考察を試みるという内容。佐々木さんの文章は結構たくさん読んでいるけれど、この本はそれぞれの問題についてじっくり調べて、時間をかけて書いているのがよくわかる。非常に示唆的で、読み応えのある本だ。
 新聞社の記者が〈われわれ〉として記事を書くのに対し、ブログは〈わたし〉で自分の思ったことを書く。新聞社が考える〈われわれ〉はすでに多くの〈われわれ〉に分散してしまっている。インターネットの世界には〈われわれ〉は存在しない。いまや「正義」や「公平」という言葉の意味さえも異なってしまっていると、筆者は書く。ジャズ界の〈われわれ〉である〈いわゆるジャズ・ファン〉も細分化している。
この本の144ページに、キーワードとしてのクオリアとセレンディビティが紹介されている。
 クオリアとは、「人間の経験のうちで、最後まで数値化できない感覚のこと」。インターネットはノイズだらけだけど、そのノイズをノイズとして認識し、統合されていない世界の有り様をダイレクトに感じ取る皮膚感覚のようなものだという。
セレンディピティとは、偶然を捉えて幸福に変えてしまう能力のこと。偶然の出会いを幸福と捉えられるか、何が別のものとして捉えるかで、その人の生き方そのものがうかがえる。
「第1章 フラット化するマスメディア」より31ページ
《インターネットの世界は、しょせんリアル世界の写し絵である。(中略)ただリアル社会では、言論の空間は新聞やテレビ、雑誌などにコントロールされているから、そうしたつまらない言論がパブリックな場所にあらわれてくる可能性はきわめて低い。しかし中央コントロールの存在しないネットの世界では、そうしたひどい言論が簡単に表出してくる。(中略)
 きちんと読むべき書き込みと、黙殺してもよいノイズのような書き込みとを読み分ける能力は、2ちゃんねるの利用者にとっては重要なスキルなのだ。(中略)ネットの世界に慣れている2ちゃんねるの利用者たちは、ノイズを黙殺し、重要だと思われる書き込みだけを拾い呼んでいき、その中から掲示板の中で進んでいる「ストーリー」を読み取る能力に長けているのである。》
《相手にとて誹謗中傷や罵詈雑言と思える発言であっても、それが本当は真っ当な批判である可能性もあるということだ》
 数日前に、あるディスクの曲目解説がつまらないと書いた。それは書き手の文章からクオリアやセレンディピティが伝わってこなかったからだ。ライヴハウスで音楽を聴くことや、未知のディスクと対峙することは、上記のクオリアやセレンディピティに他ならない。その出会いは、なんらかの幸福や感動、あるいはさまざまな深い思いを聴く者に与えるはずだが……。それが得られない人たちはお気の毒としか言いようがない。 
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by makotogotoh | 2007-12-22 11:32